昭和40年12月16日 夜の御理解
もう二、三年にもなりますでしょうか、敬親会の方達が、敬親会、会で御大祭のお供え物をしたい。それで何か、何が良かろうかというわけで、まあよりよりその相談しあわれたんですね。そして、やはり年寄りだし、その何か私は非常に、香を嗜みますもんですから、御香でもどうだろうかという様な話合いになったんですね。こんな風で、今、敬親会の方で話し合いました。
親先生どんなもんでしょうかという、いや私が参りましたら言われるんです。私そのことを神様にお届けをしてもらいよりましたら、「生きたくば信心をして長生きをせよ」と仰る。生きたくば信心をして長生きをせよとは、どういう様なことだろうかと、もう年寄ってから、年寄りらしゅうという、年寄りらしくということ、その、こう老けこんでいく様な信心ではだめだと、そして、御心眼にですね。
『若布が、こう生き生きと生えておるところを頂くんですよね』。ああた方線香のお供えどんするよかね、香のお供えなんかするよりか、若布のお供えをしなさい、生き生きした若布、ほんなこつ先生そうでした。そんなら、今度から御大祭のお供えは、敬親会は若布に決めますと言って以来、敬親会の方達が沢山若布をお供えなされます。お互い生きたくば、信心をして長生きをせよと、若い者もです。
その長生きのもとになる様な信心とは、若布の様な生き生きとした信心のことだと思うですね。今朝から、中村さんが朝の御祈念にああしてお参りになります。本当に、若い者に交じってですね。もうそれこそ今堤さんの車に便乗して見えるわけですけども、堤さんが一人で参って来る時には単車の後ろに乗ってから来られるですからねぇ。もう七十のお婆さんが、今は清さんが自動車で見えますから。
それに便乗して見えますけれども、もう時によると早かと、もう顔も洗いおうせん、もうそのまま乗ってから此処で顔を洗う様なこともあるといわれるんですけども。丁度この十三日の日に何か体が、具合が悪くてから十三日の日にお参りが出けなかった。秋山さんが迎えに行かれたら泣かれるそうですもん、今日のごたる日にお参りが出けんと言うて泣かっしゃるげな、おばしゃんそげん泣きなさんなち。
私がちゃんとお願いをしてくるから泣きなさんなち言ってから、なだめてから来ました。そしてから、それで帰りがけですもん、私が表に出て見よったら、まあだ向こうの方へ行とったら、一辺ひっくり返ってきてから、親先生私は、あの中村さんに頂くお土産を忘れてきよった。親先生何か一言でもいいから親先生元気の出なさるごたる、何か御教えを頂きたいというてからいわゆるですね。
そんな時に私頂きますことが、丁度、親の懐の中に抱きかかえられてからね、乳を飲んでおる時と思えと、こういう御理解だった。乳を飲ませて頂きよる時なら動かれん、そのことを帰りがけに寄ってから、こげん親先生仰ったよと、今日あんたたがお参りできなかったのはね、もう、いわば親の懐の中でお乳を飲んでおる様なもんだと、動かれんとは当たり前たいち、親先生の御理解頂かにゃでけんもんのち言うてから喜ばれたと言うて、今朝そのことを言われるんですよね。
どうぞ、ひとつ朝のお参りだけはお許しを頂きます様に、明日から又どうぞおかげをいただきます様にと言うて、今日お願いして帰られました。そういう信心です、若布の様な信心とは、もう本当に少うしこう寒いと、もう震え上がってしまうといった様なものではなくてです。何とはなしにそのもう本当に椛目にお参りさして頂く、その生き生きした心がそのことがありがとうてたまらんといった様な。
又それを、そういう様な心をかき立てることに、精進しておられるということが尊いですね。今日は、熊谷さんも、十五年間ひとつとして、吉井から朝参りが続けられておられます。今日は朝の御祈念の後に参ってみえまして、今日は遅れたわけなんです。そして、此処で、お届けをされる道々に思いました。これは、年取ったけんあちらも敬親会もやがて七十ですからね、
これはもう、年取ったけんとか寒むかけんとか、口実をつけよったら、それが段々、それに馴れてどうもしようなら大変だと思い思い、おかげを頂きました。こげなこっちゃいけん。先生私は朝の御祈念に間に合わん時には断食さして頂くことを、今日から御願いさして頂くといってから、お願いしていかれました。もう敬親会の七十になるお婆さんです。中村さんにおいてしかりであり、熊谷さんにおいてそれ。
私は、その長生きの元になる様な信心とは、そういう様な信心ではなかろうか、これだったら、よんどころなし強うならにゃおられませんもんですもんね。私共の母あたりでもやっぱそうです、やっぱり四時過ぎには起きてから、やっぱ御雑巾がけを、五時御祈念の前に終わります。これだけは、私の五体のそりゃ昼は寝とったっちゃ、やっばりその五体の動く限り、私はこれはおかげ頂くちいよります。
生き生きした年寄りでも、そういう様な筋金の通ったというか、本当に若布が海の中にこう生えておる様な、生き生きとした信心、若布の様な信心、そういう信心を持って、私は、生きたくば信心をして長生きをせよと仰る信心とはそういう信心じゃなかろうかと、今日は熊谷さんやら、中村さんのお届け聞かせてもろうてから思ったことでございます。若い者が縮みあがっちゃなりませんね。
どうぞ。